雨を呼ぶ呪術の不思議

祈雨術と祈雨師

中国では古くから人為的に雨を降らせる術があると信じられている。それを祈雨術という。祈雨術を操る能力者は祈雨師[qí yǔ shī]と呼ばれる。

早くから農耕を始めた中国の為政者にとって気象のコントロールは極めて重要な問題であった。

旱魃が続き農作物が収穫できなくなると国力が低下する。治安は乱れ他国に侵略の機会を与えることになりかねないのだ。

それだけではない。中国には旱魃などの異常気象は為政者の「不徳」を反映するものとの観念があるため、支配者の権威を瓦解させる危険を含む問題でもあったのだ。

つまり中国においては気象をコントロールする能力を持つことは、支配者の必須条件のひとつであったのだ。

為政者と祈雨術

殷(B.C.17世紀から B.C.1046年)の初代の王である湯は自らが祈雨師であったと伝えられている。また殷虚から発掘された甲骨文字の分析によれば、殷の王たちは自在に雨を降らすことができたようである。

日本の女王・卑弥呼のように古代社会においては王自身が能力者であることは珍しくない。しかし必ずしも王自身が能力者である必要はないのだ。優れた能力者を家臣として確保しておけばよいのである。

実際に中国の歴代王朝は祈雨術だけではなく呪術一般に通じた人材を官僚組織の中に囲い込むことにより確保していたのだ。

則天武后と孫思邈

中国の歴代王朝は国家の組織の中に呪術師の部門を保持していた。しかしそれでも旱魃が起きることがあった。

祈雨師の能力は一定不変のものではなく、生活環境や飲食物の影響を受けるとされている。官僚生活は特殊能力を維持するには不向きなのかもしれない。

国に囲い込まれた能力者の力が及ばない場合には民間の能力者が呼ばれることになる。中国には昔から青城山や龍虎山などの霊山に住み込み、自らの能力に磨きをかけている道教修行者がいる。

かつての中国では修行者たちの間で一目置かれるほどの人物ともなれば、一般人の間でも有名であった。そのくらいの人物になると医師として活躍したり易者として有名であるケースも少なくなかった。

女帝を悩ました大旱魃

唐の則天武后(624年から705年)の時代に大旱魃が発生したことがある。

則天武后は中国史上唯一の女帝である。「女が帝位に就いたから旱魃が起きた」という批判は絶対に封じ込めなくてはならない。

則天武后は数千名とも言われる洛陽の僧侶を集めて雨乞いの儀式を行った。そのときに集まった僧侶の中のひとりが儀式を取り仕切る大和尚に近づいて囁いた。

我は水龍の化身である。徳のない者たちによるこのような儀式は無意味である。

この知らせを受けた則天武后は孫思邈(そんしばく)の名を思い出した。

孫思邈は現在でも「薬王」との異名で尊崇されている名医である。ただし孫思邈は単なる医師ではない。仏教、数学、呪術などにも造詣が深い博学の天才としてその名を知られていたのだ。

唐王朝はたびたび孫思邈に使者を送り宮廷に仕えるよう勧誘していたが、孫思邈は全ての誘いを固辞していたのだ。

則天武后は孫思邈に使者を送り雨を降らすように依頼した。使者が孫思邈の親書を携えて宮廷に戻ったとき、にわかに雨が降り出して大旱魃は終わりを告げたという。

王廷貞

清の時代のことである。山東省に王廷貞という人物がいた。

王廷貞は地方の役所の下級役人であったが、地元では優れた祈雨師として知られていた。ただし酒癖が悪いという欠点があった。

あるとき酒を飲んで上官の机のうえにあぐらをかくという素行不良がたたり、上官からムチ打ちの刑に処せられたことがあった。

その直後からその地方に雨が降らなくなった。

農作物への被害が出始めたので官民揃って祈雨の祈祷を行ったが雨は降らなかった。被害の拡大を恐れる住民たちが騒ぎ出したため治安の問題にまで発展する様相を呈してきた。

不測の事態が発生すれば地元の役所が責任を問われる。役所の内部で「王廷貞に頼むしかない」という結論に達した。

上官はへそを曲げていた王廷貞に詫びを入れて雨乞いを依頼した。

見事な術

王廷貞は酒さえ飲まなければ気の良い男であった。

上官の詫びを聞き入れた王廷貞は辰年生まれの少年を8名集め、祭壇を用意するように手配させた。

王廷貞自身は3日間の精進潔斎を行った。その間に祭壇が完成し8名の少年が集まった。

王廷貞が祭壇に登って呪文を唱えると間もなく東方の空に大きな雲が現れた。その雲を見た王廷貞は用意していた縄を天に向かって投げ上げた。驚くべきことにその縄は見る見るうちに天に昇って行ったという。

王廷貞は8名の少年たちとともに縄を引き始めた。すると雲は縄によって引き寄せられ、ついには大量の雨が降り始めたという。

祈雨師の規則

多くの人たちが王廷貞のあまりにもみごとな祈雨術を目撃した。王廷貞の噂は各地に伝わり旱魃のたびに雨乞いの依頼が来るようになったそうだ。

王廷貞は依頼が来ると快く引き受けたそうだ。しかも王廷貞の祈雨術には常に効果があった。

農民たちにとっては王廷貞は救いの神であった。祈雨を依頼する人たちは礼金を支払おうとしたが王廷貞は一度も金銭を受け取らなかったという。いつも「カネではなく酒をくれ」と言っていたそうだ。

ある人が理由を訊ねたところ「金銭を受け取ると祈雨術が効かなくなるからだ」と答えたそうだ。これもまた不思議な話である。

付記

タイトルは忘れたが司馬遼太郎の本(エッセイ集だったと思う)で雨乞いの話を読んだことがある。日本にも雨乞いの術を使う人がいるらしいという話であった。しかもその術は古代から脈々と継承されているという。