生きたまま腸を引き出す朱元璋の酷刑

朱元璋

明を建国した朱元璋(しゅげんしょう:1328年から1398年)は重税に苦しむ極貧の農家に生まれた。しかも両親が早くに死亡したため、若くして流浪の托鉢生活を強いられた過去がある。

この時代の経験が皇帝になってからの朱元璋の行動に大きな影響を与えている。

朱元璋は托鉢時代の自分に関する話を嫌った。そのため「僧」や「禿」さらには禿げ頭を意味する「光」などの漢字を使った者を処刑している。ただしこのことから朱元璋が異常なこだわりを持つ皇帝だったと考えることはできない。

なぜなら中国ではどの王朝であっても漢字一文字のせいで命を落とすことは珍しくなかったからだ。それには皇帝とその祖先の名に使われた漢字を用いてはならないという禁則が関係する。この禁則を避諱(ひき)という。

避諱に違反することは皇帝に対する最大の侮辱とみなされていた。このため避諱に違反して処刑された例は枚挙にいとまがないのだ。

朱元璋が特に厳しかったわけではない。朱元璋の時代には使ってはならない漢字が以前に比べて数文字増えた程度の違いなのである。

腐敗官僚への憎悪

貧困時代の朱元璋は末端の官吏に苦しめられていたようである。その記憶が染みついているために、朱元璋は官員の不正に対して非常に厳しかった。

賄賂、横領などにより60両以上の銀を不正に受け取った官員は問答無用で死刑と定めた。

また官僚としての仕事を怠けた場合にも厳しく対処している。例えば帳簿作成の手間を省くために空白のある書類に予め職印を押していた官員が数百名も処刑された例がある(事件名:空印案)。

朱元璋は官員・官僚を処刑する新たな刑をいくつも考案している。それらは狂気をも感じさせるあまりにも残酷な刑であった。

抽腸

抽腸(ちゅうちょう)はあまりにも残酷な刑であったため、刑を発明した朱元璋自身が廃止したと言われている酷刑だ。抽腸の執行には次のような装置が使われたと言われている。

装置の全体は巨大な天秤の形をしている。天秤の一方には大きな鉄製のカギがあり、もう一方には大きな台がぶら下がっている。

この天秤のカギを受刑者の肛門に無理やり挿入した後に、もう一方の台に石を積んでゆくのだ。言うまでもなく受刑者はこの時点で生きている。

受刑者の体は固定されているため、カギが付いた天秤の一端が持ち上がると腸が腹から引き抜かれる。

腸が引き抜かれた受刑者は苦しみながら絶命したというから非常に残酷な刑なのである。

明末の農民反乱の首領である張献忠(ちょうけんちゅう:1606年から1647年)は捕えた明の官僚に対して似たような刑を執行したと言われている。

張献忠は肛門の周囲をえぐって大腸を引き出し、それを馬に繋いでから馬を走らせたという。このようにすることで大腸から小腸、そして胃袋までが引き出され無残な死に方をしたというから、朱元璋の抽腸よりもさらに残酷な刑であったといえよう。

剥皮充草

朱元璋は抽腸の他にも威嚇目的の恐るべき刑罰を発明している。それが剥皮充草(はくひじゅうそう)である。

これは受刑者を処刑した後に皮を剥いで中にワラと石灰を詰めて人形にする刑である。こうして作られた人形は人皮草袋と呼ばれた。

人皮草袋は見せしめのために役所の門前や人が集まる神廟などの前に晒されたという。

人皮草袋を晒した場所は皮場廟と呼ばれた。

明代の府、州、県の役所には大抵の場合に皮場廟が併設されていたと言われている。

地獄の刑罰

剥皮充草は朱元璋が独自のイマジネーションで考案したものではない。

中国の仏教説話の中に地獄に堕ちた極悪人が同じような刑に処せられる話がある。

朱元璋は「あの世」の刑罰を「この世」で執行したに過ぎないのだ。

朱元璋は31年の治世のあいだに15万人の官員官僚を処刑したと言われる。当時の中国にはワラを詰められた人間の皮が至る所で晒されていたのだ。

皮剥ぎの流行

明代には罪人の皮を剥いだ記録が極めて多い。

明朝初期の軍人である韓観(かんかん:?から1414年)は殺人狂であった。

韓観は殺した人間の皮を剥いで敷物を作らせたと伝えられている。人間の顔面の皮でできた椅子の背の敷物は、見る者を戦慄させたそうだ。

第11代皇帝・正徳帝(せいとくてい)は、謀反の罪人の皮を剥いで馬の鞍を作らせたと言われている。

嘉靖(かせい)年間(1522年から1566年)には海賊の首領から皮を剥いで太鼓が作られている。

この人皮鼓は鎮江の聖地である北固山の寺に収められ、多くの人が見物したと言われている。人皮鼓の音は牛の皮で作った太鼓の音と比べると劣っていたそうだ。

狂気の私刑

宦官の実力者・魏忠賢(ぎちゅうけん:1568年から1627年)にも皮剥ぎの話が残されている。それは次のような話だ。

魏忠賢
魏忠賢像

ある店で数人の客が酒を飲んでいた。そのうちのひとりが魏忠賢の悪政を批判したところ、別の男が驚いて「誰に聞かれているかわからないから気をつけろ」と囁いた。

しかし酔って気が大きくなっていた男は大きな声で「いくら魏忠賢でも俺の皮を剥ぐことはできないさ」と大口をたたいてしまった。

この知らせはすぐに魏忠賢の耳に届いた。明の時代は密告が横行していたのだ。

その夜のうちに大口をたたいた男の家に手下を引き連れた魏忠賢が現れた。男を拘束させた魏忠賢は男の体を熱したアスファルトで固めてしまった。

アスファルトが冷えたところでアスファルトを剥がすと、熱で焼かれた皮膚はアスファルトと一緒に体から分離し、肉が丸出しの人間が現れたそうだ。

殺されてから皮を剥がれるよりも一段と恐ろしく残酷な皮剥ぎが行われていたのである。

Posted by 編集長 妙佛大爺

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