中国の男性同性愛概観

断袖

男同を表す表現として、分桃と並んで有名なことばがある。それが断袖である。

もちろんこの言葉にも由来がある。それは次のような話である。

紀元前1世紀ごろ、前漢の末期に、董賢(とうけん:B.C.22年からB.C.1年)という美少年がいた。

董賢

董賢は若くして太子舍人となった。

太子舍人とは東宮の警護を行う官職である。

当時の東宮、つまり皇太子の居所には、のちに哀帝(あいてい:前漢の第12代皇帝)となる劉欣がいた。

このとき劉欣はすでに美しい董賢に着目していたようである。

劉欣が即位してからしばらく時が経ち、哀帝は宮廷内で董賢に再会する。

そのときの董賢は美しさに磨きがかかっていた。哀帝はたちまちこころを奪われ董賢を寵愛するのである。

寵愛は日ごとに増し、董賢のために皇宮と同じような宮殿を建造し、皇帝自身が用いるよりも優れた御用品を与え、また高い官職を与えた。

それどころか哀帝は皇帝の位すら董賢に譲ろうとしたという。

二人は常に行動を供にしていたようである。

『漢書・董賢伝』には二人が供に昼寝をしていたときの話が出てくる。

哀帝が目を覚ますと、董賢はまだ皇帝の衣の袖の上で寝ていた。

自分が起き上がると董賢が目を覚ましてしまうと思った哀帝は、董賢の眠りを妨げぬように自らの衣の袖を切り離してしまったという。

この故事が「断袖」の由来となっているのだ。

なお、董賢は哀帝が崩御すると直ちに没落してしまう。

手にした官職は剥奪され、王莽(おうもう:B.C.45年から23年)の弾劾を受けて自殺に追い込まれたのである。

王莽に弾劾された董賢はなす術を知らず、ただ宮殿の門前で裸足になり冠を脱いで謝り続けたというから、哀帝の寵愛を頼りに享楽の日々を過ごし、政治や世渡りについては全くの素人であったことがうかがえる。

要するに董賢は哀帝の孌童の対象に過ぎなかったということになるが、皇帝という絶対権力者は時としてそのような人物にも強大な権力を与えてしまうのだ。

社長の愛人が会社で幅を利かせるのと似たような構造が、国家レベルの規模まで肥大すると後漢末期の状況になるのである。

Posted by YangShiCui

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