中国の男性同性愛概観

男風

男同を行う風潮は男風と呼ばれた。

ここまではおもに皇帝の男風を紹介してきたが、男風は皇帝に限られたことではない。

3世紀、西晋の時代には男風が盛んになり、女色と肩を並べるほどになったと記録されている。

唐の時代の長安には男娼がいて男性に対して性的な奉仕を行っていた。

さらに時代が下った宋代においても男娼が公然と活動していた。

このため12世紀初頭には男娼を罰する政策が現れるが実効性に乏しかったようである。

明代になると男娼が活躍したのは言うまでもなく、囚人や兵士のあいだにも男風が流行した。

清代になると豪商のあいだで男風が広まっていたことをうかがわせる記録が出てくる。

そうした中には十歳にも満たない美しい男児を買い集め、その男児たちに男性同士の性交を見せつけて男風を仕込む豪商の話がある。

長いあいだ男性同士の性交を見せ付けられた男児たちは、男に従順に弄ばれるように成長し、豪商の男妾になったという。

また文学者にして書家の鄭板橋(ていはんきょう:1693年から1765年)は、自ら孌童趣味があると書き記し、年老いた自分の相手をする少年たちは金が目当てだといっている。

鄭板橋

自らの男風を書き記したこのような記録からは、当時、男風は何ら恥ずべき嗜好ではなかったことがうかがえる。

清代の小説には男娼が当たり前のように存在していたことをうかがわせる記述もある。

例えば『閲微草堂筆記』の「鄭成功と異僧」という短い話があるので要旨を紹介しよう。

鄭成功(ていせいこう:1624年から1662年)が台湾にいるとき、粤東の地方から一人の僧が海を渡って来た。

その僧は剣術と拳法を極め、肌をぬいで端坐していると鉄石のように堅く、刃物でも切れない。

また兵法にも通じていて軍事を語ればまことに要を得ていた。

鄭成功は礼を厚くしてその僧を遇したが、日を経るにしたがって増長し、傲慢無礼の振舞いがたびかさなるので、鄭成功も堪えられなくなってきた。

しかも清国のスパイであるという疑いが生じてきたので、鄭成功はその僧を殺してしまおうと思った。

しかし武芸に熟達している上に不死身の体をもつので、手を下すことを躊躇していると、大将である劉国軒がその役目を買って出た。

劉は僧を訪ねて冗談のように話しかけた。

「あなた様のような生き仏は、色情のことなどお考えになりますまいな?」

「久しく修業を積んでおるから、心は地に落ちたるわたの如くじゃ」

劉はさらに戯れるように言った。

「あなたの道心を試みて、ますます世の人々の信仰を高めさせたいものでございます」

劉は美しい遊女や男娼を十人ほど集めて、僧のまわりに床をしき、枕をならべさせて、享楽をほしいままにさせたが、僧は眉ひとつ動かさず自若としていた。

しかし時が経つにつれて眼をそむけ、遂に眼をまったく閉じてしまった。

その隙をみて劉が剣を抜くと、僧の首はころりと床に落ちたのである。

劉は遊女だけでなく男娼を呼んできた。

このことから、この当時、男娼は少なくとも遊女と同じ程度に社会に広がっていたと考えられる。

需要と供給が見合っていてこその商売であるから、男娼への需要は少なくとも遊女への需要と同程度であったのだろう。

そうだとすると清代においても中国の男風は非常に盛んであったと考えられる。

Posted by YangShiCui

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