処女の月経血から作られた明代の丹薬

特異な暗殺未遂事件

嘉靖21年(1542年)、宮廷内で嘉靖帝の命を狙った暗殺未遂事件が起きている。熟睡中の嘉靖帝を15人の宮女が絞殺しようとしたのだ。先ずはこの暗殺未遂事件の概略を紹介しよう。

嘉靖21年10月21日の夜。

嘉靖帝は端妃(妃のひとり:姓は曹)の寝所であった 翊坤宮 (よくこんぐう)で眠りについた。

端妃に仕えていた宮女の楊金英、蘇川薬、楊玉香、邢翠蓮、姚淑翠、楊翠英、関梅秀、劉妙蓮、陳菊花、王秀蘭たち十数名は寝静まった寝所に忍び込んだ。

蘇川薬が左手を抑え、関梅秀が右手を抑え、劉妙蓮と陳菊花が脚を抑えつけた。抑えつけた手足を他の官女たちが縛り上げているうちに姚淑翠が嘉靖帝の首を絞めたのである。

目を覚まして抵抗を始めた嘉靖帝の体に宮女たちは簪を突き刺して多数の刺し傷を与えている。

しかしすぐに息絶えるはずであった嘉靖帝の生命力は凄まじかった。なかなか死なない嘉靖帝の様子を見ていた張金蓮という名の官女がその場から逃げ出した。

不死身伝説

皇帝は龍の生まれかわりであり不死身の肉体を持つ。

本気にしていなかった不死身伝説が本当なのだと思い込んでしまったのだと言われている。

その場を逃げ出した張金蓮は翊坤宮のすぐ近くにある坤寧宮(こんねいいぐう)に駆け込んだ。坤寧宮は皇后の寝所である。

張金蓮は皇后に暗殺計画の全てを打ち明けた。皇后はすぐに救出のための人員を翊坤宮に向かわせた。

大勢が駆けつけてくる気配を察した宮女たちは動揺して逃げ出したが全員が捕えられた。

嘉靖帝の全身が血にまみれ、意識は朦朧としていた。

直ちに宮廷医が呼ばれたが、率先して治療を始めようとする医師はいなかった。治療に失敗すれば自分自身の命が失われることになりかねないからだ。

そのとき許紳(きょしん)という医師が己の命を賭けて治療を行った。死にかけた病人を生き返らせるための劇薬が使われた。一か八かの荒療治である。

数日後、嘉靖帝は奇跡的に健康を回復した。この時の功績により許紳は太子太保、礼部尚書の官名を与えられ、中国史上最も高位に就いた医師として歴史に名を残す結果となった。

なお許紳は病死している。なぜ許紳は自分自身の病気を治せなかったのかのだろうか。これに対しては許紳自身が答えを出している。

自分の病気は命を賭けて嘉靖帝を治療したときの恐怖心から来るものである。心に刻まれた恐怖心はどんな薬を飲んでも消し去ることはできない。だから自分は死ぬしかないのだ。

中国医学はあまりにも強い恐怖心は健康を害すると警告している。その警告通り許紳は病気から回復することなく死亡したのだ。

粛清

事件に関与した宮女たちは嘉靖帝が完全に回復する以前に皇后の命令により処刑されている。特に実行犯である楊金英らは中国で最も過酷な刑罰であるとされてきた凌遅刑(りょうちけい)に処された。

この時に端妃を始めとする後宮の女性たちも事件に加担したとして処刑されている。実際には暗殺事件に全く関係がなかった女性たちも処刑されてしまったのだ。

皇后は暗殺事件に乗じて後宮の主要なライバルたちを排除したのである。

以上が壬寅宮変(じんいんきゅうへん)と呼ばれる前代未聞の皇帝暗殺未遂事件の概要である。

なぜ宮女たちは嘉靖帝を暗殺しようとしたのだろうか?

壬寅宮変は複数の女性による暗殺未遂事件というだけでも特異な事件であるが、それ以上に女性たちの動機こそがこの事件の異常性の核心なのだ。

おぞましすぎる事件の背景

嘉靖帝は明朝の第12代皇帝である。およそ300年続いた明朝の皇帝の中で最長の45年という在位期間を記録している。

嘉靖帝は精力と寿命を維持するために特別な薬を服用していたと言われている。不老長寿と強壮作用を兼ね備えた宮廷の秘薬を一般的には丹薬(たんやく)という。

丹薬を服用するのは中国支配者の証と言ってよい。嘉靖帝に限らず歴代の皇帝が丹薬を服用していたのだ。

ただし嘉靖帝が服用した丹薬は特殊な「原料」を必要とする新しい薬であった。

丹薬の製造は宮廷医が行う場合もあるが、道教の練達者が行うのが一般的であった。なぜなら道教修行者が不老長寿を目指して開発を始めたのが丹薬の始まりだからである。

媚薬製造の達人陶仲文

嘉靖帝は陶仲文(とうちゅうぶん:1475年から1560年)という名の道術師を信頼していた。

陶仲文は媚薬的な強壮剤作成の達人であった。現在の中国でも陶仲文の処方から派生した漢方媚薬が使われると言われているくらい影響力がある人物である。

陶仲文は嘉靖帝に対して処女の月経血は「純陰到極」であり、丹薬の材料に最適であると進言している。そして美しい少女たちの初潮を集めて作る元性純紅丹の作成を任されたのだ。

陶仲文は13歳から14歳の美しい少女たちを宮廷内に集めた。血液の薬効を高めるために食事として桑の葉だけを与えた。

また彼女たちは朝露以外の水を飲んではならなかった。朝露などいくら集めても微々たるものである。彼女たちは極度の水分欠乏状態に陥ったことは間違いない。

このようにして体を「浄化」してから月経促進剤を飲ませて月経血を採取したのである。

恐るべき薬効

宮廷内で大変な処女虐待が行われていたわけだが、この虐待には終わりがなかった。なぜなら陶仲文が作る丹薬には驚くべき効果があったからだ。

嘉靖帝はひと晩に十人以上の女性と交わうことができたというのだ。ただし丹薬を飲むことで性格が凶暴化し、女性を殺すこともよくあったそうだ。陶仲文の丹薬はサディスティックな性欲を極度に刺激する作用を秘めていたのだ。

丹薬の乱用を嘆いた太僕寺卿(たいぼくじきょう)楊最(ようずい:1472年から1540年)は、嘉靖帝に丹薬の服用を止めるよう進言したが、嘉靖帝の怒りを買い処刑されている。

追い詰められた宮女たち

皇帝暗殺未遂事件はこうした状況下で発生したのだ。

宮女たちは自分たちの同僚が嘉靖帝のサディスティックな欲望の犠牲となって殺されるのを何度も目撃していた。

いつかは自分たちも殺される。

そうした恐怖の中で座して死を待つよりも嘉靖帝を殺害してしまおうという極端な発想が生まれたのだ。

皇帝の暗殺に成功したとしても処刑されることはほぼ間違いない。なぜ宮廷から逃げるという発想が浮かばなかったのだろうか?

その理由のひとつは「若さ」であろう。

若いうちは自分のいる世界の他にも広い世界があることに気がつかない。例えば学校という社会に居場所がなくなっただけで死を選ぶ発想。それと同じ極端な発想を思い浮かべてしまうのが「若さ」の恐ろしい一面なのだ。

嘉靖帝の後宮に入った時点で、若い女性たちは恐怖と死から逃れられない運命を背負っていたのかもしれない。