中国政治と逆風水の知られざる関係

古代の陵墓と陰宅風水

中国の風水学は死者の家である墓の風水を非常に重視している。墓の風水を陰宅風水という。これに対して生きている人間の家の風水を陽宅風水という。

陽宅風水は現にその家に住んでいる人の運気に関わるが、陰宅風水は子々孫々の運気を左右するので、一族の繁栄にとっては陽宅風水よりも大きな影響がある。

古代の君主や皇帝が壮大な陵墓を建設したのは陰宅風水を考慮してのことなのだ。

生在蘇杭 死葬北邙

中国には「生在蘇杭 死葬北邙」という言葉がある。

生活するなら蘇州か杭州、葬られるなら北邙(ほくぼう)が良いという意味である。

北邙は洛陽の東北にある北邙山を意味する。北邙山と黄河のあいだには風水学が理想とする「背山面河」の土地が広がっている。

この土地は古くから陰宅の「宝地」であると評価されてきた。死後、北邙に葬られれば子孫が繁栄すると信じられているのだ。

北邙には戦国時代、秦、漢、曹魏、西晋、魏、唐、後梁、南唐、宋、元、明の君主や大人物が葬られている。

日本でも有名な歴史的人物の一例として呂不韋、班超、関羽、杜甫などの名を挙げることができるが、これはほんの一部である。北邙に眠る王侯貴族の名を順番に確認すると中国史そのものになるとすら言われているくらいだ。

特異な陵墓

北邙には後漢時代の皇帝の陵墓もある。それは次の5つの陵墓だ。

光武帝の原陵
安帝の恭陵
順帝の定陵
衝帝的の懷陵
霊帝の文陵

5つの陵墓のうち光武帝の原陵だけが北邙山の陰面に造られている。その他の4基が全て陽面に造られていることと比較すると、それだけで特異な陵墓だとわかる。

原陵の特異性はそれだけではない。

陵墓は山を背景にして河に向かって造られるのが常識である。ところが原陵だけは黄河を背景にして山に向かって造られているのだ。風水的に型破りな構造をしているのである。

光武帝

原陵に葬られた光武帝とはどのような人物だったのだろうか。中国史の復習をしてみよう。

光武帝は前漢の第6代皇帝・景帝の末裔である。

王莽(おうもう:B.C.45年から23年)の叛乱によって前漢が滅んだとき、後に光武帝となる劉秀はまだ頭角を現してはいなかった。

しかし王莽の自滅的な政策と反乱軍の善戦に助けられ劉秀は王莽打倒勢力の重要人物になって行く。

最終的には部下に請われる形で後漢の初代皇帝に即位したのだ。運と人望により一度滅亡した漢王朝を復興した稀有な人物なのである。

光武帝は日本とも縁のある皇帝である。『後漢書』の記録によると志賀島(しかのしま)で発見された「漢委奴国王」の金印は光武帝が与えたものなのだ。

光武帝の評判はすこぶる良い。

徴兵制を廃止し、人身売買を制限し、税を軽減し、儒教と学問を奨励した。

政治手腕も相当なもので光武帝の時代には諸侯の権限を縮小して皇帝の権力をゆるぎないものにしている。実際に後漢帝国は200年の繁栄を誇ることになった。

漢帝国の守り神

光武帝は漢帝国を復活させ、後の繁栄の基盤を築いた人物である。光武帝の陰宅をしかるべく造営していれば、漢の皇室の末裔は再び中国を支配することができたはずだ。

それにもかかわらず逆風水とでも呼ぶべき陵墓が造られたのはなぜであろうか?

古代の陵墓建設は国家の命運を左右する重要事項であった。素人でもわかるような不適切な構造が採用されるはずがない。

実は現在の光武帝陵は最初に造営された光武帝陵とは似て非なるものなのである。

後漢の末期に朝廷内の実権を握った董卓(とうたく:?から192年)が歴代皇帝の陵墓を盗掘して副葬品を奪っている。このときに光武帝の原陵は墓の内部だけではなく陵墓全体が徹底的に破壊されてしまったのだ。

風水学的に言えばこのことが後漢の滅亡を早めたのである。

原陵の再建

破壊された原陵は数百年のあいだ無残な廃墟として放置されていた。この間に造営直後の原型は完全に失われてしまったのだ。

宋の時代なってようやく光武帝の陵墓が再建された。宋代になっても光武帝は優れた皇帝であったと評価されていたため、古の名君を偲んで再建工事が始まったのだ。

ただし宋の皇室には風水的に完璧な光武帝の陵墓を再建する意図はなかった。

そんなことをすれば光武帝の子孫が再び中国を支配するかもしれない。光武帝は一度滅んだ漢帝国を復活させた皇帝なのだ。漢の復活劇が再演されることなど誰も望んではいなかったのだ。

優れた皇帝に敬意を示しつつ風水的には宋の繁栄に影響を与えない陵墓を建設する。これが原陵再建を担当した風水師に与えられた課題である。

原陵再建が少しでも宋の皇室に悪影響を与えるようなことはあってはならない。何かあれば風水師の責任が問われることになるのだ。

宋の皇室に万が一にも影響が及ばないように風水師は逆風水と呼ぶべき陰宅の構造を考案した。見た目は壮麗だが風水的には最悪の構造をもつ陵墓を造る。そうすれば光武帝の子孫に再び中国を支配する天運が巡ることはない。

光武帝の陰宅が宋の皇室にとって脅威になる可能性を完全に潰した設計思想。その風水学的意図によって造られたのが現在の原陵なのだ。

中国において墓の建設は呪術的であると同時に政治的なのである。