死を見世物にした紂王の酷刑

殷の紂王

王朝最後の主である紂王(ちゅうおう:B.C.1105年からB.C.1046年)は恐ろしい君主であった。酒池肉林で知られる享楽にふけり、苛政を諫めた家臣を惨殺している。

殷王が単に贅沢で残酷な君主であったなら中国史上屈指の暴君とまでは言われなかっただろう。そのような君主は他にもたくさんいたからだ。

紂王はいわゆる「バカ殿」ではなかった。司馬遷は『史記』の中に紂王の優れた能力を記録している。

紂王は洞察力に優れ頭の回転が速く弁舌も巧みであった。しかも猛獣を倒すほどの身体的能力を具えていたというのだ。

つまり文武両道に秀でた万能の君主だったのだ。しかも美貌の持ち主であったというから、無いのは道徳心だけだったと言ってよい。

残義損善曰紂
義を残(そこ)ない、善を損なうを「紂」と曰(い)う

蔡邕(さいよう)『独断』

頭が良い上に残酷な人間が最もタチが悪い。

紂王は刑罰による威嚇効果を最大限に高める過酷な刑罰をいくつも発明している。その中のいくつかは後の時代にも承継された。

醢刑

殷の時代に三公と呼ばれる重職があった。『礼記』などによると三公とは司馬、司徒、司空を意味する。

紂王の時代には西伯昌、九侯、鄂侯が三公の地位に就いていた。

九侯には美しい娘がいた。評判を聞きつけた紂王はその娘を妾にしたが、その娘は淫蕩を好まなかった。紂王は腹を立てて娘を殺し父親である九侯を醢刑に処した。

九侯有好女、入之紂。九侯女不喜淫、紂怒、殺之而醢九侯。
司馬遷『史記・殷本紀』

醢刑[hǎi xíng] は紂王が発明した刑罰のひとつとされている。

これは受刑者を殺した後に肉を削ぎ落して塩漬けにする刑だと言われている。

当時の中国では動物の肉を同じ方法で保存していた。そうした食べ物を一般的に「肉醤」と呼ぶため、中国では醢刑は人間の肉醤を作る刑だと説明されることがある。

肉醤は日本語で「しおから」と訳されることが多い。だから日本では醢刑は人間をしおからにする刑だと説明されることもある。

刑の執行方法

受刑者を殺してから塩漬けにしたのではなくて、生きたまま肉を削いで塩漬けにしたと考える人もいる。しかしこれよりもさらに残酷な解釈も存在する。

受刑者を生きたまま巨大な石臼に放り込み、棒で叩き潰して肉醤にしたというのだ。

醢という文字は塩漬けにした食品一般を意味する字であった。獣肉を醢にするときには肉の塊を塩漬けにするのが一般的である。しかしカニの醢を作るときなどは、カニを石臼に入れて叩き潰したものに塩を加える。

醢の作り方から考えれば、受刑者を生きたまま石臼で潰すという方法が採用されていた可能性も少なくはないのだ。

いや、より残酷で威嚇力が強い方法を採用するのが紂王である。生きたまま叩き潰され塩漬けにされた可能性のほうが高いというべきだろう。

人間を肉醤にしたと聞くと、その後に誰かが食べたのではないかと疑いたくなる。

しかし一般的に言えば醢刑に処せられた「人のしおから」は食用にされたわけではないようだ。それよりも「食べ物にされてしまう」という恐怖心を煽ることが目的だったと言われている。

醢刑に処せられたのは九侯だけではない。

最も有名なのは孔子の弟子の子路(B.C.543年からB.C.481年)であろう。

衛の国に仕えていた子路は反乱軍に醢刑に処せられたのだ。この話を聞いた孔子は保存していた食用の醢を全て捨て去ったと言われている。

脯刑

紂王は三公のうちの九侯を醢刑に処したが、同じく三公のうちの鄂侯は紂王を批判したために脯刑に処せられている。

脯刑[fǔ xíng]は醢刑と似た意味合いをもつ刑である。

脯は「干し肉」を意味する字であり、現在の中国でもジャーキーを表す牛脯、鹿脯などという字がよく使われる。

脯刑は受刑者の肉を干し肉にしてしまう刑罰なのである。やはりこれも「食べ物に加工されてしまう」という恐怖心を煽る刑罰なのだ。

ここまで来ると単なる計算された刑罰の威嚇効果を突き抜けた狂気の世界である。サイコパスの底知れぬ不気味さを感じるのは私だけではないだろう。

焙烙の刑

紂王が考案した酷刑の中で最も有名なものは焙烙[páo luò]である。

焙烙は日本語では「ほうろく」と読み、食品を炒るための調理器具を意味するが、中国では恐ろしい刑罰の名称であった。

中国では肉を焼くときに使う銅製の網を焙烙と呼んでいたらしい。しかし紂王の「発明」により別の意味が加わった。

紂王は銅製の丸い柱で橋を作り、たっぷりと脂を塗り、その下から火で炙って熱してから受刑者を渡らせる刑を考案した。これが焙烙の刑である。

通常受刑者は橋を渡り切ることはできない。脂で足を滑らせ火の中に落下して死亡するのである。

司馬遷によれば焙烙の刑は刑罰として実在したようだ。しかし命懸けの見世物として行われたこともあったという。

目の前で人が苦しみながら死ぬのを見物する。この精神性が紂王の最も恐ろしい異常性を示している。

虿盆

紂王は虿盆[chài pén] という刑も発明したと言われている。

虿は中国でもあまり使われない古語である。これはサソリやムカデなどの毒虫や毒蛇などの小動物を総称する言葉だ。

地面に穴を掘り、その中に無数の虿を入れる。その穴に裸にした受刑者を閉じ込め、毒で殺されるのを待つおぞましい刑罰が虿盆なのである。

あるとき紂王は官女に全員裸になって踊るように命じたという。そのときに服を脱ぐのをためらった女性がいた。紂王はこの女性を死刑に処すと決めた。

その時に妲己(だっき)のアイディアを採用して発明されたのが虿盆であると言われている。

穴に放り込まれた全裸の女性の体に夥しい数の虫がたかり、毒の牙で噛み針で刺す。悲鳴をあげても逃れることはできない。

このようなやり方では簡単には死なない。無数の毒虫のおぞましさに悪寒を感じながら徐々に徐々に息絶えるのだ。

紂王はこれを上から覗きながら酒を飲む。これもまた単なる刑罰というよりも紂王の嗜虐性を満足させるための見世物的な意味合いが強い酷刑なのだ。

残酷な刑罰が行われる国には必ず異常人格を具えた支配者がいるものなのだ。