なぜ人の皮で太鼓が作られたのか

呪器としての人皮鼓

古代の中国において太鼓は鬼神と対話するための呪器であった。動物の皮を用いる楽器は動物の死体の一部なのである。そこには霊力が宿り、人と鬼神の媒介となるのだ。

人の死体を使うことにより呪器の霊力は増強される。そこに宿るのは我々の肉体に宿る魂と共鳴しやすい人の魂だからだ。

人の皮から作られる太鼓を人皮鼓という。

人皮鼓の音には特別な力がある。その音に込められた祈りは霊的な世界に届き鬼神を動かすと信じられているのだ。

かつての中国には神への祈りを込めて自ら人皮鼓となることを志願した人もいたと言われている。その一例が五台山の人皮鼓だ。

五台山の人皮鼓伝説

山西省の五台山は古くから仏教の聖地のひとつに数えられている。五台山には数多くの古刹が点在し、古い仏塔が多数残されていることで知られている。

五台山の東庄村に元の時代に建立された鉄瓦寺という名の寺院がある。前院の法祥寺と後院の台佛庵からなる大きな寺だ。

明の正德8年(1513年)に改修が行われ、その時に全ての屋根瓦を鉄製の瓦に変えたことから鉄瓦寺と呼ばれるようになったそうだ。

かつて鉄瓦寺で夫婦が同時に出家したことがあったという。

夫婦のひとり息子が亡くなり、世をなんで仏門に入ったのだ。夫は前院の法祥寺で修行し、妻は後院の台佛庵で尼になった。

時が経ち、夫は亡くなった。自分にも死期が迫ったことを悟った妻は遺言を残した。

自分の皮で太鼓を作り多くの人にその太鼓を叩いて欲しい。

そのことによって寡婦や子を失う親が減るように祈願したというのだ。

この尼の皮からは遺言通り人皮鼓が作られたと言われているが、現在その行方はわからなくなっている。

黒山寺

唐の時代の五台山には黒山寺という寺があったそうだ。

黒山寺に法愛という名の僧侶がいた。法愛は20年ものあいだ寺の財産を管理する役職に就いていた。その間に寺の財産を横領して土地を買い占めていたのである。

法愛が亡くなった直後のことである。法愛の弟子である明誨の夢に法愛が現れた。法愛は夢の中で次のように語ったという。

私は重い罪を犯してしまった。来世は牛に生まれ変わり、その後も、その後も牛に生まれ変わらなければならない。

私の遺骸から皮を剥いで太鼓を作り、そこに私の名を書いて皆の者に叩かせてくれ。

そうすれば私の罪が軽くなる。

目が覚めた明誨は師匠の願いを聞き入れて人皮鼓を作った。

この太鼓は後世まで残された。文化大革命の時代の目撃証言も残されている。

直径は1尺半ほど。太鼓に張られた皮には背骨の隆起の跡が残っていたという。しかし文革の時点ではすでに皮は破れていた。しかも皮には卑猥な落書きがされていたそうだ。

この情報に対しては五台山の内部事情に詳しいと自称する人物から次のような話が伝えられている。

文革の時代に公開されていた人皮鼓はニセモノだ。本物はとっくの昔に顕通寺の後殿に移されている。

文革時代の目撃証言によると人皮鼓には落書きがあったというのだが、本物の人皮鼓がそのような粗末な扱いを受けていたのは不自然だ。法愛の人皮鼓は今でも人目につかない寺院の奥に隠されているというのが真相であろう。

チベット密教の法器

チベットでは人体から楽器や杖など様々な法器が作られていた。人皮鼓もそのひとつである。

人皮鼓は密教の本尊であるチェチョク(総集ヘールカ:持明金剛)の法器と考えられていたようだ。チェチョクの人皮鼓は緑色に塗られるのが一般的であるそうだ。

チベットにおいては人皮鼓は打ち鳴らすことが目的ではなく、その存在自体に秘密本尊と同化する意味があるのだ。

現在の中国ではかつてのチベットで作られていた法器についての話題は政治化しているため、政治的な意図を排除した情報が入手しづらくなっている。

中国では人体を用いた法器は「解放前」のチベットの階級制度が生んだ残酷な遺物であると位置づけられている。

そのため中国政府の支配に抵抗するチベット人には人体法器の存在自体を否定する空気があり、作成の目的や利用の実態について情報を引き出せる雰囲気ではないのだ。

現在のチベットでは人皮鼓はすでに使用されていないため、どのように使われ、どのような効果があったのかという核心部分についての情報は永遠の謎になってしまうだろう。

康熙帝の人皮鼓

清の康熙帝(1654年から1722年)に関する次のような話が残されている。

あるとき康熙帝は西北部に巡幸する夢を見たという。その夢の中で広大な砂漠の中に美しい緑地を発見した。その緑地には光り輝く城があった。

目を覚ました康熙帝は夢の中で見た緑地の位置を地図の上に描き、その地点に人を派遣した。するとその地点には確かに康熙帝の夢に現れたのと同じ緑地が発見された。

緑地に生えていた大木の形まで夢の中に現れたものと一致していたという。ただしそこに城はなかった。

この報告を聞いた康熙帝は、その緑地が異民族からの防御に適した地点であったことから、そこに城を築く決心を固めた。

そこで康熙帝は程金山という人物に築城を命じて巨額の資金を与えた。

程金山は息子たちを引き連れて築城に着手したが、城とは名ばかりの粗末な土塁を築いただけで工事を完了し、築城資金の大半を横領してしまった。

その緑地は北京から遠く離れていたため、当分のあいだは発覚するはずがないと判断したのだろう。

5年後に勅使が視察に行くと、そこには小さな土塁があるだけだった。この報告を聞いた康熙帝は程親子を探し出して処刑した。

処刑されたふたりの息子の頭蓋骨は耳のあたりから切り取られた。脳を取り去るとそこに空間ができる。その空間を上から塞ぐようにして背中から剥いだ皮をかぶせて人皮鼓が作られた。

程金山の頭部からは人頭碗が作られたという。

康熙帝は永寧寺を建立し、その寺に程親子の人頭碗と人皮鼓を保存した。永寧寺の僧には官僚の不正を戒めるために1日に3回太鼓を叩く任務が与えられたという。

現在、永寧寺はすでに廃されてしまったが、程親子の人頭碗と人皮鼓は永寧寺の跡地のすぐ近くに建設された橋湾博物館に陳列されている。