冷宮
中国の後宮には罰則に違反した女性を軟禁する区域があった。そのような場所を冷宮という。
冷宮に押し込められるのは必ずしも罰則に違反した女性だけではない。
後宮は政治闘争の場である。讒言や陰謀によって冷宮に追いやられる女性も少なくなかったと言われている。
冷宮は自殺他殺が頻発する区域でもある。だから冷宮には恨みを抱いて死んだ女性たちの怨霊が潜んでいる。
霊的な禁区であり、政治的にも危険は冷宮は、華やかな宮廷の雰囲気からは隔絶された寂しく陰気な一角なのだ。
戊戌の政変後に珍妃は景祺閣(寧寿宫中路の北端)の裏にある小さな冷宮に追いやられた。珍妃の側近であった女官は解雇され、宦官の多くは処刑された。
冷宮に軟禁されてからの珍妃は西太后の息がかかった宦官に監視されることになったのだ。
珍妃井
光緒26年(1900年)に義和団の乱が勃発した。
義和団の乱は当初は義和団という秘密結社による排外運動であったが、西太后が「扶清滅洋」を掲げる義和団を支持して欧米列国に宣戦布告したため、国家間の戦争に発展した。
しかし清朝の軍事力はすでに弱体化していた。欧米列強国軍が北京に迫ると、西太后は西安に逃走している。
このときに光緒帝も北京を脱出している。
光緒帝は珍妃を連れて行くように懇願したが、西太后は逃亡の足手まといになるという理由で承知しなかった。それどころか外国人から辱めを受ける前に自殺するよう珍妃に命じたのである。
しかし珍妃は自殺を承諾しなかった。
怒った西太后は部下に命じて珍妃を井戸に投げ込ませた。そして万が一にも助からないように井戸の上から石を投げ込ませたのだ。
1年余りのあいだ珍妃の死体は井戸の底に沈んでいた。
欧米列国に多額の賠償金を支払うことで北京に戻った西太后は、珍妃の死体を引き上げて河北省・保定の崇陵妃園寝に埋葬させている。
この時点で西太后は、珍妃は井戸に身を投げて自殺したとの情報を流している。
珍妃が投げ込まれた紫禁城の井戸は現在でも残っている。
珍妃井と呼ばれるその井戸は一般に公開されているが、使用は禁止されている。
怪異
恨みを抱いて死んだ人の魂は、その土地をさまようと考えられている。日本にも地縛霊という観念があるが、中国でも同じ認識が共有されているのだ。
珍妃井の周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃されている。
また詩を吟じる女性の声や、すすり泣く女性の声を聞いたという証言も少なくない。
しかし本当の闇は珍妃井の周囲ではなく冷宮に隠されていると言われている。珍妃が幽閉されていた部屋は今でも非公開なのだ。
冷宮の陰気は珍妃井の周辺よりも濃いと言われている。
改革開放政策が始まる以前の北京では、故宮の警備体制が現在ほど厳格ではなかったそうだ。その頃の故宮には窃盗が立ち入ることがしばしばあったという。
故宮の敷地に侵入したところで何か金目のものがあるわけでもないから、実際にはほとんど被害はなかったそうだ。むしろ立ち入った窃盗のほうに思いがけない禍が起きていた。
珍妃が幽閉されていた冷宮の付近に近づいた窃盗の何人かが怪死しているというのだ。
どの窃盗もまるで巨大な鈍器で頭を叩き割られたかのような姿で死んでいたという。しかも凶器は一切見当たらなかったそうだ。
井戸に投げ込まれた珍妃は生きていたが、後から投げ込まれた石が命を奪ったと言われている。
そのときの死が再現されていたのかもしれない。