西太后と光緒帝
清の第11代皇帝である光緒帝(1871年から1908年)は、西太后の妹の男子である。
西太后には自分自身の男子がいた。第10代皇帝の同治帝(1856年から1875年)である。
西太后は同治帝をコントロールすることによって、清朝の実質的な支配者になっていた。しかし同治帝は19歳の若さで病死してしまう。
そこで西太后は当時わずか3歳であった光緒帝を即位させて自らの権力を維持したのだ。
光緒帝の皇后に選ばれた隆裕皇后(1868年から1913年)は西太后の弟である桂祥(けいしょう:1849から1913年)の娘であった。これも西太后の意向である。
余談になるが、ラストエンペラー溥儀を光緒帝の後継者(皇帝)に指名したのも西太后である。
光緒帝の時代に清朝は危機的な状況を迎えていた。
新疆などで内乱が勃発したために多額の国費を投じて抑え込んでいたが、光緒20年(1894年)の日清戦争に代表される外国との衝突も相次ぎ、帝国の屋台骨が揺らぎ始めていたのだ。
そんな中、光緒帝はいつまでも西太后の傀儡に甘んじていては危機を脱することはできないと考え、親政による政治改革を始めた。
この改革の支持者たちを変法派という。
変法派の中に西太后を排除する動きがあったことから、西太后は変法派への弾圧を開始した。光緒帝は軟禁され変法派の主要人物は処刑されたのである。
この事件を戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)という。
光緒帝と珍妃
光緒帝は西太后の親戚である隆裕皇后よりも珍妃(1876年から1900年)を寵愛した。珍妃は好奇心が強く聡明で非常に明るい性格の女性であったそうだ。
珍妃は13歳の時に姉とともに後宮に入っている。
その時の地位は「嫔」であった。嫔は皇后、皇貴妃、貴妃、妃に次ぐ5番目の位である。
光緒20年(1894年)に妃に昇格しているが、それでも序列から言えば4位であった。
しかし後宮の女性にとっては形式的な序列よりも皇帝の意思が重要である。
光緒帝は珍妃と生活を共にし、珍妃は光緒帝の政治改革を支持した。珍妃は本来なら清王朝における女性の実質的な最高位に到達していた人物なのだ。
しかし当時の清王朝は西太后の天下であった。珍妃は西太后から疎まれていたのである。