湖北省の山岳地帯
湖北省西部は山深い土地であり、少数民族が暮らす地域でもある。
川に面した平地には近代中国の雰囲気が流入しているが、一歩山の中に入れば都市部の常識とは異なる不思議な話が溢れている。
これは湖北省西部の山岳地帯で漢方薬の採取をしている人たちに伝わる話である。
野人が棲むと言われている神農架(しんのうか)の付近には、小さな地蜘蛛が大発生することがあるという。
その蜘蛛は紅眼蛛と呼ばれているそうだ。
大きさは大きめのアリくらいしかない。頭だけが不似合いなほど大きく、8個の目が付いている。
蜘蛛の目は8個が一般的なので、このこと自体は珍しくもない。
しかし目の色が鮮やかな赤い色をしているのは紅眼蛛だけの特色だそうだ。
毎日のように山に入る人たちでも紅眼蛛を目にすることは滅多にない。
ところが数年に1度、あるいは数十年に1度というペースで「忘れた頃」に大発生するのだ。
紅眼蛛の恐怖
漢方薬を採取する山の人たちのあいだでは「紅眼蛛が出ると嫁が死ぬ」と言われている。
それは彼らだけが知っている経験則だという。
漢方薬を採取する人たちは、薬の知識を持っている。このため彼らは病気の治療を頼まれることが少なくないそうだ。
無医村が多い中国の農村部では、医師以外の人間が病気の治療を行うことも少なくない。
詐欺師的な「仙医」などと比べれば、薬草採りのほうが頼りになる存在なのだ。
病気の治療を依頼されるのだから、人の死に立ち会う機会も多い。
だから彼らは知っているのだ。紅眼蛛が大量に発生した年には、病死する女性と子供が急増することを。
死亡するのはその年に子供を出産した女性と、その赤ん坊である。
成人の男性には影響はないそうだ。
治療のために呼ばれる人たちは、死亡した母親と子供の死体には奇妙な共通の特徴があることを知っている。
特に奇妙なのは子供の死体である。
生まれたばかりなのに前歯が生えていると言うのだ。しかも通常の歯ではない。
錐のように長細く尖った前歯が生えているのだ。それともうひとつ特徴がある。
両目の眼球が赤く充血しているのだ。
母親の死体の特徴はわかりづらい。しかし「それ」を知っている人間なら見過ごすことはない。
乳房に太い針で刺したようなふたつの穴が開いてるのだ。
遺族も死体の奇妙な特徴に気付いているはずだ。しかし彼らは同じような特徴を持つ遺体が他にもたくさんあることを知らない。
だからこれは自分の家族だけが罹った奇病であると考えがちである。そしてその事実を隠そうとするのだ。子供に奇妙な歯が生えていたことを秘密にしてくれと頼む父親もいるそうだ。
だからこの話は、病気の治療を頼まれる人たちだけが知っている風土病なのだ。
風土病の正体
漢方薬の採取者たちのあいだでは次のように言われている。
紅眼蛛が発生した年には鋭い前歯が生えた子供が生まれる。
その子供は母乳ではなく血液を吸うのだ。鋭い前歯は乳房に穴を開けるために生えているとしか考えられない。
子供は単に血を吸うだけではない。
蚊が血液を吸うときに毒液を注入するように、子供に乳房を噛まれると、毒を注入されてしまうようだ。
この毒で母親が死ぬのだ。
異形の子供の方はもともと寿命が短いのだろう。あるいは自分の毒で死んでしまうのかもしれない。
奇病の謎
なぜ紅眼蛛が発生した年にだけこのようなことがおきるのだろうか?
これに対してはふたつの考え方がある。
ひとつは妊婦が紅眼蛛に噛まれると異形の子を産むようになるという考え方だ。
紅眼蛛には未知の毒があり、その毒に中ると胎児の生育に何らかの変化が起きると言うのだ。
もうひとつは霊的な存在の影響だろうという考え方だ。
そもそも紅眼蛛は異形の蜘蛛である。異形の人間が生まれるのと同じ理由で紅眼蛛が大発生すると言うのだ。
山には霊的な存在が宿っている。その存在は人間の営みに怒りを発することがあると言われている。
それはそうだろう。
木を伐り、水を汚し、大気を曇らせる。
こうしたことへの怒りが人間の胎児を異形の怪物に変えてしまうと言うのだ。
何が真実であるかは断定のしようがないが、今後も紅眼蛛が大発生するたびに、若い母親と嬰児が死亡するのかもしれない。