死者の婚姻・冥婚の歴史と現状

冥婚とはなにか

周公旦(しゅうこうたん)が書き残したとされる『周礼』には、遷葬(せんそう)と嫁殤(かしょう)を禁じる文言が残されている(禁遷葬與嫁殤者)。

遷葬とは生前夫婦でなかった男女を合葬することを意味する。もともと埋葬されていた遺体を合葬する相手の墓に遷すことから、遷葬と呼ばれたようだ。

嫁殤とは婚約した男女の一方が夭折した場合に、生きているほうが死者と婚姻することを意味する。特に女性が夭折した場合を指すこともあるが、男性が夭折した場合にも行われたようだ。なお「殤」とは、成人する前に死ぬことを意味する。

『周礼』の時代には死者の婚姻には遷葬と嫁殤があったのだが、後にこれらは冥婚合葬という言葉で表現されるようになる。

『周礼』は冥婚を禁じているのだが、このことは当時の中国ですでに冥婚が行われていたことを意味するのだ。

しかしこれで驚いてはならない。冥婚の風習はさらに以前に遡ることができるようだ。

婦好

甲骨文字の中に婦好という女性がたびたび登場する。

考古学者の研究により、婦好は殷の第23代目の君主である武丁の妃であると特定された。

不思議なことに甲骨文には婦好が大甲、成湯、祖乙などの男性に嫁いだ記録が残っている。

奇妙なのはそれだけではない。これらの男性の生存期間を比較すると、百年以上の開きがあるのだ。

婦好は百年以上の間隔をあけて複数の男性に嫁いだことになるのだ。

この事実を考古学者は次のように推理している。

殷の時代の中国にはすでに冥婚の習慣が存在した。武丁は自分の愛妃が死亡した後に、冥婚という形式で祖先たちに婦好を捧げたのだ。

つまり冥婚は中国の最も古い文字記録にも残されている因習なのである。

冥婚が庶民にも浸透した一般的な風習であったかどうかは、記録がないのでわからない。古い時代には王侯貴族の事績だけが記録されているからだ。

そうした記録によれば、少なくとも王侯貴族にとって冥婚は一般的な習慣だったようだ。

曹操

冥婚に興味を持つ中国人にとって、曹操が手配した冥婚は常識に近い有名な話だ。

曹操は13歳で夭折した息子の曹冲(そうちゅう:196年から208年)のために、夭折した女性の遺体を入手して冥婚を行った。

この時代の女性は歴史に名を残さないのが一般的である。曹冲の妻となったのは甄(しん)姓の女性であったことだけが記録されている。

これ以外にも曹家と甄家には冥婚を通じた縁がある。

曹操の孫である曹叡(そうえい:204年から239年)の娘が夭折した際には、夭折した甄家の男子との間で冥婚が行われたのだ。

当時は未婚のまま死亡する男女が少なくなかったから、冥婚の相手を探すのも現在よりははるかに容易だったのだろう。

冥婚は曹家の「お家芸」というわけではない。その後の中国でも皇室による冥婚が行われて来た。

北魏の孝文帝

北魏の第6代皇帝である孝文帝(こうぶんてい:467年から499年)は夭折した娘・始平公主のために冥婚の相手を探した。

夭折した貴族の男子を探し出し、高い官職を追贈してから冥婚を行ったため、その男子の家族は栄華を極めたと伝えられている。

冥婚は結婚と同様の意味をもつので、夭折した男子が皇帝の娘と冥婚すれば、その家族は皇帝の親類として扱われたのである。

隋唐時代の冥婚

唐の唐の第4代および第6代皇帝である中宗(ちゅうそう:656年から710年)にも冥婚にまつわる話がある。

その話の前になぜ中宗は第4代および第6代の皇帝なのかが気になるだろう。

中宗はいったん皇帝に即位した後に宮廷内の権力闘争に敗れて廃位され、後に復活して再び皇帝に即位した特異な経歴をもつ皇帝なのだ。

中宗には李重潤(りじゅうじゅん:683年から701年)という男子がいた。いったんは皇太子に立てられたが、中宗と則天武后との権力闘争に巻き込まれて死に追いやられている。

後に皇帝の座に返り咲いた中宗は李重潤に皇太子の地位を追贈し、国子監丞であった裴粹(はいすい)の夭折した娘との冥婚を挙行している。

また唐の第10代皇帝である粛宗(しゅくそう:711年から762年)にも冥婚に関する記録が残っている。

粛宗は讒言を信じて自分の息子である李倓(りたん:757年没)を死に追いやった。

後に粛宗は李倓のために興信公主(玄宗皇帝の娘)の娘である張氏と冥婚を手配している。

隋唐時代の中国では、民間人のあいだでも冥婚が行われていた。冥婚を示す文字が刻まれた複数の墓誌が出土しているからだ。

恐らく記録が発見されないだけで、民間の冥婚はかなり古くから行われていたのだろう。

夭折した子が冥界で孤独にならぬようにするのが冥婚の目的であるが、民間の冥婚には有力者との強い関係性を築く目的もあったと考えられている。

ここまで紹介した冥婚の記録から判断すると、かつての中国では冥婚は慎むべき行為ではなく、むしろ子供が夭折したら冥婚をするのが望ましいと考えられていた可能性が高い。

宋代の中国には、我が子が夭折した場合には鬼媒人と呼ばれる死者のための媒酌人に冥婚を依頼する習慣があったようだ。

このような専門家は冥婚のための遺体を探す情報網をもっていたと考えられる。

遅くとも宋の時代には、冥婚を支える社会的なシステムが完成していたと見るべきだろう。

次に近代の冥婚の例を紹介しよう。

丘逢甲

日清戦争(1894年から1895年)後の下関条約によって台湾が日本に割譲されることが決定された。

この割譲に反対して義勇軍を結成し、日本軍に抵抗した丘逢甲(きゅうほうこう:1864年から1912年)という人物がいる。

丘逢甲

丘逢甲は14歳のときに林家の令嬢と婚約をした。しかし丘逢甲が成人する前にその女性は病死してしまった。そのため、20歳になった丘逢甲は廖(りょう)家の令嬢と結婚したのだ。

結婚の翌年に子が生まれたが、その子はすぐに亡くなった。

これを婚約していた林家の令嬢の祟りであると考えた丘逢甲の家族は、丘逢甲と林家の令嬢の冥婚を挙行したのである。

この時代の中華圏で、生きている人間が死者と冥婚するケースは珍しい。

蒋介石

近代の冥婚の中で最も有名なのは蒋介石の弟である蒋瑞青(しょうずいせい)の冥婚であろう。

蒋瑞青は若くして病死したため、母親である王采玉(おうさいぎょく:1863年から1921年)が王姓の夭折した女性の遺体を探して冥婚を行ったのだ。

当時の中国では冥婚は異常な因習などではなく、良家であれば当然行うべき儀式であったと言ってよい。

清朝末期から中華民国初期の中国では、冥婚は通常の婚姻と同様にめでたい儀式であると考えられていたのだ。

冥婚によって結ばれた両家は骨屍親と呼ばれた。

これは特殊な親戚関係を意味する。つまり冥婚は一族の勢力が拡大するポジティブな行為とみなされていたのだ。

長い中国の歴史の中で、冥婚が忌むべき行為とみなされるようになったのは、つい最近のことなのである。

現代中国の冥婚

現在の中国では冥婚は禁止されている。しかし実際には冥婚の風習は失われていない。

現在でも冥婚が行われているのは山東省、山西省、陝西省などの中国北部の農村である。

現在の中国では結婚前に死亡するのは男性の方が多い。男性の方が危険な作業に従事することが多いからだ。

このため独身女性の遺体が不足している。

そこで他の地域で女性の遺体を確保し、冥婚が盛んな土地に運んで販売する事件が多発している。

遺体を確保する手段としては、土葬死体を掘り起こす死体窃盗が一般的であるが、未婚女性を殺害して販売する例も少なくない。

この手の犯罪は発覚するまでに時間がかかるので、犯人が検挙された時点でかなりの人数の女性が殺害されていることが多い。

殺人までして死体を確保するのは最近の傾向である。

改革開放政策以前の農村は非常に貧しかったので、遺体を買うことができなかった。当時は遺体の代わりに紙や草で作った人形を使うこともあったようだ。

しかし現在は事情が変わっている。

未婚男性の死亡原因は何らかの作業中の事故が多い。このような場合には遺族に対してそれなりの保証金が支払われる。遺族はその保証金の大半を女性の遺体を買うために使ってしまうのだ。

まとまった現金が動くので、専業で死体を供給するアングラビジネスが成立するようになったのだ。宋代の鬼媒人に相当する職業が現代中国にも出現したのだ。

死体が最も高く売れるのは山西省だと言われている。つまり山西省で最も需要が旺盛なのだ。2017年の情報によると女性の死体1体の価格は日本円で100万円ほどである。

ただし様々な事情により、死体の価格には大きな開きがある。

先ず死体のコンディションによって価格が異なる。

死亡直後の死体は鮮屍と呼ばれ、最も高価である。死亡後にかなりの時間が経過して骨だけになると干屍と呼ばれ、最も安価で取引される。鮮屍と干屍の中間的な状態の死体は湿屍と呼ばれ、中間的な価格になる。

また遠方から運ばれてくる死体は複数のブローカーの手を経由するので、何度もマージンが上乗せされ、末端価格が跳ね上がる。

墓から死体を盗んだ人物から直接買い取るのが最も安価であるが、一般人には墓泥棒の知り合いなどいないから、どうしても仲介人を経由するしかないのだ。

死体の価格は毎年のように値上がりしているそうだ。このことは死体需要が現在でも旺盛であり、しかも増加傾向にあることを物語っている。

何千年もの歴史をもつ冥婚が簡単に消えてなくなるはずはないのだ。

恐らく今この瞬間も中国大陸では冥婚のための死体が掘り起こされ運搬されているはずだ。