農村の藪の中
貴州省銅仁市の西部に印江県という田舎街がある(中国の県は日本の県よりも小さい単位)。
2001年7月5日の朝7時ころ、印江県の峨嶺鎮に住む村民から次のような通報が届いた。
牛を連れて猿の頭(地名)の近くに行ったら黒焦げの遺体を見つけた。
通報を受けた公安は現場に向かった。
その現場は公道からそれほど離れていなかったが、道からは死角になる地点であった。
恐らく現場付近の地理を熟知した人物の犯行だろう。
焼かれた遺体の付近には被害者の所持品とみられる物品が焼かれた跡も残っていた。
遺体と所持品を焼いてしまえば、被害者の身元がわかりづらくなる。そうなれば捜査が困難になる。
それを狙った焼却であろう。
このようなことを考えるのは前科者だと推測された。
初動捜査
殺人事件では被害者の身元を特定することが重要な意味を持つ。
身元がわかれば交友関係などから犯人の候補を絞り込むことができるからだ。
公安はわずかに焼け残った被害者の所持品から、この被害者が学生であることを突き止め、そこから身元を特定した。
被害者は19歳の女性。
ふだんは別の街の親戚の家から学校に通っていたが、夏休みで帰省し、実家に向かう途中で被害に遭ったことが判明した。
解剖の結果、これは強姦殺人事件であることが判明した。
当時はまだDNA鑑定が行われていなかった。
採取された犯人の体液から得られたのは、犯人の血液型がO型だという情報だけだった。
胃の内容物などからは、犯行時刻は夜間ではなく昼間であることが判明した。
捜査員たちはこの鑑定結果を最初のうちは信じなかったそうだ。
当時、現場付近では道路工事が行われていた。
多くの作業員がいるすぐ近くで強姦殺人を行い、犯行を隠蔽するために遺体と所持品を焼いた。
これは捜査員の常識に反する事実だった。
被害女性の体格は優れていた。この女性が必死で抵抗すれば、男でも押さえつけることは難しい。
犯人は屈強で体力がある人物だということになる。
さらに女性の首には植物のツルが巻き付けられ、特殊な方法で結ばれていた。
以前の農村では薪を燃料にしていた。その時代には薪を運ぶときにツルで薪を縛ったそうだ。
ツルの結び方にはコツがあり、特殊な結びかたをしなければ解けてしまう。
犯人はその特殊な結びかたを知っていたのだ。
以上のことから、次の犯人像が浮かび上がった。
地元の人間または土地勘のある人間
農村出身者
体格・体力が優れている
前科者の可能性が高い
血液型はO型
公安はこれらの条件に当てはまる人物を片っ端からリストアップした。
現場の村はもちろん周囲の村でもこの作業が続いた。さらに現場付近を訪れた経歴のある者も捜査の対象となった。
その結果、貴州省だけではなく広東省、四川省、重慶などでも調査が行われた。
2000名の候補の中から150名を除外したが、決定的な証拠がなかったため、条件を満たす候補者を絞り込むことができなかった。
この事件は地元警察の最大の課題であった。長年の捜査により、捜査員ごとに「あいつが真犯人だ」という対象を特定していたようだ。
転機
2010年になって大きな変化が生じた。
DNA鑑定の導入である。
保存されていた犯人の体液がDNA鑑定にかけられた。
捜査員たちは自分が目を付けている人物こそが真犯人だと考えてDNAサンプルを入手した。
しかし捜査員たちの確信は、科学によって、ことごとく否定されたのである。
そんな中で犯人の候補に挙がっていたFという男に注目が集まった。Fには窃盗の前科があった。
しかもFは事件現場付近の村に住んでいたが、事件後に村から姿を消していたのだ。
捜査員の多くはFが犯人である可能性が高いと考えられていたが、Fの行方はわからなくなっていた。
ところが2015年に交通違反の記録の中にFの名が現れたのである。
その記録をもとに調査をしたところ、Fは広東省・東莞(とうかん)の虎門鎮にいることが判明した。
公安はFのDNAサンプルを採取して照合した。
その結果、Fこそが14年前の強姦殺人犯であることが判明したのである。
14年間も捕まらなかったFは、逃げ切ったと考えていたに違いない。
犯人のDNAが保存されていなければ何の証拠もなかったのだ。
証拠の保存、科学的分析、触法者のデータベース。この3要素が連携して犯人を特定したのである。
この事件は公安の捜査能力を示すための格好の材料であるためテレビ番組でも放映された。
中国では実際には捕まらない凶悪犯人も少なくないはずだが、逃亡中の犯人がこのような番組を見れば、少しは恐怖を感じるだろう。