各地の鎖龍井で起きる怪奇現象

鎖龍井とは何か

中国の各地には龍を封じ込めたとされる井戸の伝説がある。そのような井戸を鎖龍井という。

鎖龍井は中国の各地に存在する。そのいくつかを紹介しよう。

南京倉巷の鎖龍井

南京の倉巷という土地はかつて八爪金龍巷と呼ばれていた。地名が変わったのは明代のことだ。そのきっかけとなった話が残されている。

明を建国した朱元璋は南京に都を建設した。ある日朱元璋が朝天宫(朝廷の儀式を行う施設)に向かって歩いていると、前方の壁に映った大きな影が激しく動いていることに気がついた。

何の影かと思って近づくと、二匹の八爪金龍が戦っていた。

朱元璋は龍が都を破壊しにやってきたのではないかと疑い、側近の劉伯温に相談した。

劉伯温は明の建国に貢献した政治家であり軍師であるが、中国10大予言書のひとつである『焼餅歌』を残した人物としても知られる超能力者である。

劉伯温は「七十二地殺之法」を用いれば龍を封じ込めることができると進言した。

朱元璋は劉伯温の進言に従って八爪金龍巷に72の井戸を掘らせた。また安品街に深い井戸を掘らせてそこに鉄の鎖を投げ入れた。

このことにより龍は身動きが取れなくなったという。

八爪金龍巷は龍を「封じ込めた」という意味の「倉」という文字を用いて倉巷と改名されたのだ。これも劉伯温の進言によるものだと言われている。

河南省禹州の禹王鎖龍井

神話時代の中国に禹(う)という聖人がいた。禹は夏王朝の創始者とされているが、中国では黄河の治水事業を完成させた偉人としての知名度が高い。

禹が治水事業を推進していた頃のことである。

治水により自分の支配領域が狭まることを恐れた龍がたびたび禹の工事を妨害した。禹は一方で工事を推進しながらもう一方で龍と戦わなければならなかった。

禹は龍が襲ってくるたびに撃退していたが、最終的に100人の勇者を水に飛び込ませて龍を捕えることに成功した。

禹は深い井戸を掘らせてその中に捕えた龍を封じ込めたと伝えられている。

その井戸は河南省禹州の古鈞台にあったと言われている。現在は同じ場所に禹の功績を讃えるための井戸が再建されている。

山東省済南の舜井

山東省の済南には舜井と呼ばれる井戸がある。直径は50センチほど。中国では小さい口径の井戸である。

伝説によれば舜井は神話時代の王である舜(しゅん)が掘った井戸だそうだ。そもそも人々に井戸というものを教えたのは舜であると言われている。つまり舜井は中国最古の井戸ということになるのだ。

舜井にはさらに別の伝説も語られている。

舜の時代に巫支祁という名の龍がいた。巫支祁は舜に対して王の座を自分に譲るよう要求していたが舜は禹に王の地位を譲ってしまった。

腹を立てた巫支祁は中国全土に水害を発生させた。巫支祁がいる以上治水はおろか民の安全も確保できない。

禹は自ら荒れ狂う海に乗り出し、死闘のすえに巫支祁を捕えた。そして禹は巫支祁を鎖で縛り、舜井に封じ込めたのである。

鉄の花が咲くまで

巫支祁を舜井に投げ込もうとしたときに巫支祁は「いつまで閉じ込めるつもりだ?」と訊ねたそうだ。禹は「鉄の木に花が咲くまでだ」と答えたという。鉄でできた木に花が咲くはずはない。永遠に封じ込めるという意味であった。

ある時、山で薬の木の枝を切って帰ってきた男が舜井に立ち寄った。荷物を井戸の脇に置いて井戸の中をのぞき込むと突然牛の鳴き声のような音が井戸の底から響いてきた。

驚いて身をそらすと黒い龍が飛び出てきてはるか彼方に飛び去ったそうだ。

話を聞きつけた住民が集まり井戸の底を調べてみると、巫支祁を縛っていた鎖はとっくに錆びてボロボロになっていた。巫支祁は井戸の底で鉄の木の花が咲くのを待っていたのだ。

井戸をのぞき込んだ男の荷物を見ると木の枝の先に花が咲いていた。巫支祁はその花を見て解放の時が来たと思ったのだろう。

北京北新橋の鎖龍井

新北橋の鎖龍井は中国で最も有名な鎖龍井である。なぜなら北新橋の鎖龍井で起きた怪奇現象は今まで紹介した話と比べるとかなり最近の出来事だからである。

そもそも北新橋の鎖龍井は北京に城郭都市が作られる以前から存在していたとされている。北京にはもともと複数の海眼があり、北新橋の鎖龍井はそのうちのひとつであったそうだ。

海眼とは地下で海につながる井戸である。北京から海まではかなりの距離がある。北京に海眼があること自体が奇怪であるが、さらに不思議な話が残されている。

龍との約束

明代のことである。北京に都市を建設するのに先立って何者かが北新橋の井戸に龍を封じ込めたと言われている。

当時の北京ではしばしば水害が発生していた。都市を建設した後に水害が発生すれが影響が大きい。そこで特殊な能力者に龍の処理を任せたと言われている。このときに派遣されたのも劉伯温だとする説もある。

明の北京遷都は永楽帝の時代の出来事であるが、それ以前にすでに都市建設は始まっていたから劉伯温が派遣された可能性は大いにありうる。

龍を封じ込めるときに能力者は井戸の近くにある橋を指さして「あの橋が古くなり新築することになったら開放する」と約束したそうだ。

この約束を知っていた北京の住民は橋を新築せず、井戸の上に廟を建設したという。永遠に北京が水害に遭わないようにするためであろう。

ただし井戸そのものは最近まで見ることができたようだ。なぜなら次のような話が伝わっているからだ。

日本軍の試み

北新橋の鎖龍井には太い鎖が垂れ下がっていたという。北新橋の鎖龍井に限らず鎖龍井には龍を縛るための鎖が垂れ下がっていることが多いのだ。

戦時中、この鎖を日本軍が井戸から引き出すように命じたそうだ。

しかしいくら引いても次々と鎖が伸びてきて鎖の先は出てこなかった。ついには井戸から黒い水が湧き出し、井戸の中から奇怪な音が轟いたというのだ。

さすがの日本軍もこの不気味な現象を恐れてそれ以上鎖を引くのを止めたそうだ。龍の怒りを恐れたのであろう。

文革時代に紅衛兵が日本軍と同じように鎖を引き出そうとしたが、全く同じ現象が起きたため鎖を引き出す試みは頓挫したそうだ。

現在の鎖龍井

どういういきさつかは不明であるが文革後に北新橋の鎖龍井は塞がれてしまった。そのため今では鎖龍井がどこにあるのかわからなくなっている。

地下鉄5号線の工事の際に鎖龍井を掘り返してしまったため、地下鉄の工事計画が大きく変更されたとの話も伝えられている。中国では公共工事ですら怪奇現象を避けるために変更されることがあるのだ。

現在でも新北橋という地名は残っている。そのどこかに今でも龍が封じ込められているのだ。