習近平の法治主義
習近平は法による支配を標榜している。
現代の常識では法治の対義語は人治である。
法治が人治に勝るのは言うまでもない。
それぞれの役人に大きな裁量権を与えると、コネや賄賂が横行し、結局は政権そのものに対する一般民衆の不満が高まり、国が滅んでしまうからだ。
しかし習近平のいう法治はこれとは違う。習近平のいう法治は韓非子の法治なのだ。
韓非子の法治は人治に対する法治ではない。
韓非子の時代には儒学者が徳治を標榜していた。
為政者の徳が高ければ民衆は自然に付いてくるという理想を説いていたのだ。
しかし徳治という思想には具体性がない。差し迫った政治課題解決の指針にならないのだ。
また韓非子によれば民衆はクソなのであって、為政者の徳が高くても民衆は勝手なことをするだけなのだ(性悪説)。
だから徳治ではダメ。これが韓非子の主張である。
つまり韓非子の法治は儒学者が主張していた徳治の対義語なのだ。
統治は徳ではなく法によって行う。なぜなら民衆はルールで縛らなければロクなことをしないクソだからである。
これが韓非子の法治であり習近平の法治なのだ。
官僚が勝手なことをしないようにルールを決めておくべきだという「人治」の対義語としての法治ではなく、民衆をルールで縛るべきだという古い時代の中国の思想であることを忘れてはならない。
二柄
韓非子は君主(支配者)は次のふたつを手放したときに没落すると説いている。
ひとつは賞を与える権能、もうひとつは罰を与える権能だ。
このふたつを韓非子は二柄(にへい)と呼んだ。
賞を与える権能は喜びを与える権能であるから、これを行使するときは気分がよい。
しかし罰を与えると恨まれることになる。
だから君主は賞を与えるときは自分自身で行い、罰を与えるときは別の者に任せようとする。
しかしこのようなことをすると、罰を恐れる者たちは罰を与える権能を持つ者に従うようになり、君主の権力は弱体化する。
だから君主は罰を与える権能を部下に委譲してはならないのだ。
習近平は腐敗を摘発する機関を掌握した。
共産党の幹部は例外なく不正蓄財をしている。全員が「叩けばホコリが出る身」なのだ。
だから中国で腐敗を摘発する権能を掌握するということは、いつでも誰に対しても罰を与える権能を手中に収めたことを意味するのだ。
中国の長老たちは人事に介入して手下を出世させる権力、つまり賞を与える権力は手放さなかった。
しかし罰を与える権能は習近平に移譲してしまったのだ。
その結果「俺たちが習近平を国家主席にしてやった」と考えていた長老たちと習近平の力関係が逆転してしまったのだ。
現在の中国では習近平が二柄をつかんでいる。
だからこそ習近平は事実上終身の国家主席という地位を獲得できたのだ。
習近平は韓非子を愛読している(していた)らしいという話は以前から指摘されている。
習近平の演説の中にも韓非子が引用された例があるからだ。
韓非子を重用したのは中央集権制度を確立した秦の始皇帝だ。
習近平は第二の毛沢東と言われているが、実質は敵対勢力を徹底的に弾圧した始皇帝の生まれ変わりなのかもしれない。