伝説の宝石「夜明珠」の謎

夜明珠伝説

中国では古来より自ら光りを放つ不思議な宝石の存在が記録されて来た。書物によってその呼び名は様々だ。

随珠、悬珠、垂棘、明月珠、夜光璧、夜光石など実に多くの呼び名がある。現在の中国では夜明珠と呼ばれることが多い。

中国医学の神である神農は夜鉱と呼ばれる石を所有していたと言われているが、これも夜明珠であると考えられている。

なぜなら神農は夜でも夜鉱の光を使って病人を治療したと伝えられているからだ。

秦の始皇帝の墓には夜明珠があるとされている。墓の中の照明は灯火ではなく夜明珠が使われていたというのだ。

夜明珠は何千年ものあいだ光を放ち続けると言われている。だから始皇帝陵の中では今でも夜明珠が輝いているのだ。

『魏志倭人伝』で知られる魏の時代には、ある農民が直径一尺ほどの巨大な夜明珠を掘り当てたとする記録が残されている。光を放つその姿を恐れて放棄されたそうだ。

後漢の初代皇帝である光武帝の皇后・郭聖通(かくせいつう)に郭况(かくきょう:9年から59年)という弟がいた。郭况は陽安侯に封じられた大貴族である。

経緯は不明であるが郭况は夜明珠を入手している。月や星を鑑賞するかのように眺めていたというのだ。

唐代には玄宗皇帝が夜明珠を所有していたとされる。

後の夜明珠の記録もほぼ全てが皇室との関係で語られている。

宋の皇室が所有していた夜明珠はチンギスハンに奪われ、その後元朝の宝物になったが、元が滅びると台湾に持ち出されたという記録もある。

元の時代も明の時代も皇室は新たな夜明珠を求めて探索させていたらしい。その足跡は中国国内にとどまらず遠く海外まで及んでいる。

西太后の夜明珠

夜明珠にまつわる話の大部分は歴史上の大人物と関連がある。このことだけでも夜明珠が国家を支配するレベルの人物でなければ所有できないほど貴重な宝石であることを物語っている。

玄宗、チンギスハンに匹敵する清代の大人物と言えば西太后であろう。

西太后

実は西太后の夜明珠こそ中国で最も有名な夜明珠なのである。

さすがは清朝の支配者である。西太后は複数の夜明珠を所有していた。1900年に列強諸国が北京に迫ったときのことである。

西太后は宝冠から4個の夜明珠を外し、この夜明珠を列強諸国に渡す代わりに北京から兵を引くよう李鴻章に交渉させようとしていた。

西太后は厳重に包装した夜明珠を女官の王という17歳の少女に託した。西門賓館に李鴻章の使者が来ていたので、その使者に渡すように告げたのだ。

しかし貴重な品が入っていると見抜いた少女は夜明珠をもったまま姿を消してしまったのである。その後、夜明珠の行方はわからないまま清朝は滅亡してしまった。

ところが1964年、つまり夜明珠が消えた年から64年後に4個の夜明珠が発見されたのである。それは偶然の出来事であった。

西安の住宅で大掃除をしていたところ、その家の子供が黒光りする小箱を発見したのである。

それを開けてみると、中には赤い布でくるまれた何かが入っていた。布を開くと今度は黄色い布が現れた。

それを開くと油紙で包まれた何かが出てきた。そっと触ると中には綿でくるまれた硬いものが入っているのがわかった。

慎重に開いてみると中から4個の光を放つ球体が現れたのである。

発見者はこの発見を直ちに政府に連絡した。考古学者の鑑定により、それこそが1900年に行方不明になった西太后の夜明珠だと断定されたのである。

発見者は夜明珠を国家に寄付したため、政府は10万元の報奨金を申し出た。富豪の基準が万元戸と呼ばれていた時代の10万元である。

しかし発見者は、もともと国家の宝物であるからと言って報奨金を受け取らなかったそうだ。まだ素朴な時代の中国にはこのようなエピソードが残されているのだ。

しかし多くの人が「西太后の夜明珠」と聞いてイメージする夜明珠は、実はこの話に出てくる夜明珠ではない。