ある晩のできごと
怪物と聞くと邪悪なもの、人に災いをもたらす存在だと思い込みがちである。ところが中国の怪物はその本性が善なのか悪なのか判然としないものもある。
浙江省の帰安県という土地での話である。
ある人物が帰安県の県令に着任した。県令というのは比較的規模が大きな県の長官である。官僚としてはかなりの身分ということになる。
着任から半年ほど経ったある晩のことである。
県令が妻とともに床に就いてからしばらくしたときに門を叩く音が聞こえた。災害や犯罪の知らせは時を選ばない。県令は起き上がって外に出た。
当時の常識として、夫が起きているのに妻が先に寝るわけにはゆかない。妻も起きて待っていると、県令はすぐに戻って来た。
県令は妻に「風の音だったようだ」と告げると寝てしまった。妻も横になったがそのとき夫の体から何か生臭い匂いがすると感じたという。
県令の善政
その夜を境にして帰安県の治安は改善を見せた。県令の政策が的確だったからだ。また県令の裁判はどれも名裁きであり、神を思わせるほどのものであったという。
県令の評判は日に日に高まった。いつの間にか地元では「善政を行う名県令」との評価が定着していた。
数年経ったある日、張天師が帰安県に立ち寄った。
張天師は道教の聖人である張道陵(34年から156年)の後継者に与えられる名である。漢の時代から張天師と言えば道教の大人物とみなされていた。
道教界の張天師はキリスト教の教皇に匹敵するほどの人物である。道教の信奉者からすれば文字通り神のような存在であるが、一般の中国人の目から見ても非常に影響力のある存在であった。
これほどの大人物が現れたにもかかわらず県令は挨拶に出ようともしなかった。このとき張天師はすでにただならぬ妖気を感じ取っていたという。
意外な事実
張天師は県令の妻を密かに呼び出した。
恐れ入る妻に張天師は「数年前の某日、夜中に門を叩く音を聞かなかったか?」と訊ねた。
妻には心当たりがあったので「はい」と答えた。
すると張天師は「今の県令はお前の夫ではない。あの日、門の外を見に行った夫は黒魚の精に喰われて、取って代わられたのだ」と教えた。
驚いた妻は夫のかたきをとって欲しいと懇願した。すると張天師は静かにうなずいて祈祷を始めた。
すると不思議なことに何メートルもの大きさの巨大魚が現れて張天師の前にひれ伏した。
張天師は「本来ならお前は死罪だが善政の功績により命は助けてやる」と宣言した。そして大きな甕を用意させて中に怪魚を閉じ込めたのである。
護符で甕のフタに封印した張天師は「次に帰安県を通りかかったら開けてやる」と約束した。
しかし張天師はその後、帰安県には近づかなかったそうである。つまり張天師が閉じ込めた黒魚の精はいまだに甕の中に閉じ込められているのだ。
この話は明代のできごとだそうだから黒魚の精はもう何百年も帰安県のどこかに閉じ込められていることになる。
善悪相殺
この短い話からは人間心理のある傾向が読み取れる。善悪相殺の心理だ。
黒魚の精は県令を喰い殺している。これだけを見れば死罪だというのだが、一方で善政を行っているので死罪を免れるというのだ。
実績のある政治家は他方で悪いことをしていても割り引いて評価してよいという考え方は現代の日本にもある。
人々の手本とみなされている張天師が黒魚の精を殺さなかった話が残されているところを見ると、善悪を相殺する心理は日本人に限らず中国人にも共通する傾向なのだろう。
何か良い評判があれば悪いことをしても割り引いて評価されるとなると、被害者は救われない。夫を喰われた妻にしてみれば黒魚の精が善政を行ったかどうかはどうでもよい話なのだ。
一番恐ろしいのは県令の妻の立場になってしまうことだ。
夫を喰われた妻がどうなったか、その後の記録は残っていない。