謎に満ちた宇宙人コンタクティー

中国三大UFO事件

中国には三大UFO事件と呼ばれる事件がある。ひとつは空中怪車事件、もうひとつは鳳凰山事件、そしてもうひとつが今回紹介する黄延秋事件である。

黄延秋事件は中国三大UFO事件の筆頭とまで呼ばれる謎に満ちた事件である。中国でUFOを語る者のなかに黄延秋事件を知らない者はいない。

黄延秋

河北省の南部に始皇帝の出身地でもあり「邯鄲の夢」の話でも有名な邯鄲市がある。地図を開き邯鄲市の中心から東を見ると東北高村という村がある。注意しなければ見過ごしてしまうほど小さな村だ。

事件が発生した1977年当時、この東北高村に黄延秋(こうえんしゅう)という名の男性が暮らしていた。当時の黄延秋は結婚を目前に控えた20代の青年である。

後に中国全土の注目を集めることになるこの青年は、変わった挙動や言動などとは無縁の平凡な好青年であった。

不可解な失踪

1977年7月27日。1度目の事件が発生した。

その日の夜、自宅で就寝したはずの黄延秋が突然失踪してしまったのだ。

小さい村であるからどこかへ出かけたのであればすぐにわかる。しかし黄延秋の姿は村のどこにも見当たらなかった。

黄延秋は同じ村の女性との結婚を目前に控えていたため親類たちは慌てた。村内はもちろん、近隣の村にまで捜索の手を広げて探したが、何の手がかりもないまま時間だけが過ぎて行った。

10日以上経過したある日、東北高村から1キロほど離れた辛寨村(しんさいそん)から1通の電報が届いた。その電報は辛寨村からのものではなく遠く離れた上海からの電報であった。

そこには「上海の譴送(けんそう)駅に黄延秋を収容したから引き取りに来られよ」との内容が書かれていた。

現在はすでに廃止されているが、かつての中国には都市に流入した農民を収容して出身地に戻す制度があった。外地の農民を一時的に収容する施設が譴送駅である。

黄延秋は何らかの事情で上海に行き、運悪く譴送駅に収容されてしまったということになる。

身柄の引き取りを要請する電報は、本来なら東北高村に送られるはずだったのだが、何らかの手違いで近隣の辛寨村に送られてしまったのだ。このため黄延秋は何日ものあいだ行方不明になっていたのだ。

奇妙な日付

電報が発信された日付を見た親類たちは目を疑った。

電報の発信日が黄延秋が失踪した日の翌日、7月28日だったからだ。

当時の中国では、どんなに速い交通手段を用いても、27日の夜に出発して翌日に上海に到着することはほぼ不可能だった。当時の中国にも飛行機はあったが、一般の農民が利用できる状況ではなかったのだ。

親類たちは人違いであると考えた。

人違いだとすれば、身柄引き取り要請の電報が黄延秋とは縁のない辛寨村宛に送られたことも納得できる。

そこで親類のひとりが村の幹部と相談の上「本人なら肩に痣があるはずだから確認してほしい」との電報を上海の譴送駅に向けて送信した。当時の東北高村にはまだ電話線が引かれていなかったようだ。

その電報に対してすぐに回答が返って来た。

意外なことにその電報には「肩の痣を確認した」と記されていたのだ。

常識ではあり得ないことが起きていた。

なぜ黄延秋はたったひと晩で上海まで移動できたのか?

大きな疑問はあるものの、政府機関の要請であるから誰かが黄延秋の身柄を引き取りに行かなければならない。結局黄延秋の兄が上海に向かったのである。

不可思議な移動の真実

上海の譴送駅に収容されていたのは間違いなく黄延秋だった。

身柄を受け取った兄は最大の疑問を投げかけた。

どうやって一晩のうちに東北高村から上海に移動したか?

これに対する黄延秋の説明は常人には信じがたいものであった。

7月27日の夜10時ころ、黄延秋はいつものように自室で就寝した。

しばらくすると聞いたこともないような騒音のせいで目が覚めてしまったという。静寂が支配する農村の夜には似つかわしくない喧騒。

目を開けた黄延秋は驚愕した。自分の体がいつの間にかビルが乱立し、ネオンが輝く街の路上に横たわっていたからだ。

黄延秋は起き上がって周囲を見回した。光り輝く看板の数々。そこには無数の「南京」の文字があった。どうやらそこは南京の繁華街らしかった。

自分はどうして南京にいるのだろうか?

呆気に取られていると2人の警察官らしき人物が近づいてきた。黄延秋が助けを求めようとすると、彼らはあたかも黄延秋の事情を知っているかのように口を開いた。

そろそろ上海行きの列車が出発するから、それに乗って上海に行き、譴送駅で相談すれば故郷に帰れる。

彼らはそう言って黄延秋に上海行きの汽車の切符を手渡したというのだ。

親切なことに2人の警察官は黄延秋を南京駅のプラットフォームまで送ってくれた。列車に乗り込む直前に警察官は「上海に着いたら駅の派出所に行き、私たちを呼び出しなさい」と言った。

警察官は上海まで同行するつもりだろうか?

しかし2人の警察官は駅のプラットフォームで黄延秋を見送った。南京に残った警察官を上海の派出所で呼び出せるはずがない。要するに現地の警察官に相談しろということだろう。

上海に到着すると再び不思議なことが起きた。

1970年代の上海

南京で出会った2人の警察官が派出所の前で待っていたのだ。警察官は黄延秋を譴送駅に送り届けてから、どこかへ去って行ったという。

睡眠中になぜ南京へ移動していたのか。南京に残ったはずの警察官がなぜ上海で待っていたのか。

これらの疑問は黄延秋自身にとっても理解しがたい謎であった。

第2の事件

第1の事件からひと月あまり経過した9月8日。第2の事件が発生した。

夜の10時過ぎに就寝した黄延秋は真夜中に目を覚ました。

驚くべきことに、そこは上海北駅だったのである。駅の時計を見ると午前1時。当時は上海でも午前1時になれば人影はまばらであった。

しばらくすると雨が降ってきた。

黄延秋は心細くなった。上海に親類や友人はいない。面識がある人物と言えば上海郊外の駐屯地に勤務している同郷の軍幹部だけだ。

しかしその駐屯地は上海北駅から40キロも離れていると聞いていた。しかも具体的な住所や、そこにたどりつく交通手段などについて何も知らなかったのだ。

途方にくれている黄延秋に突然軍服を着た2人の男が話しかけてきた。見たことのない男たちだったが、2人の男はなぜか黄延秋の名を知っていた。

彼らは黄延秋を軍の駐屯地に案内すると言った。

不気味ではあったが2人の申し出に従わなければ雨の中にひとり取り残されることになる。黄延秋は彼らと一緒に上海北駅を離れた。

今も昔も上海の渡し船は24時間稼働している。

1970年代の上海の船着き場

3人は渡し舟とバスを乗り継いで上海郊外の駐屯地に到着した。もう夜は明けていた。

不思議なことに門衛も駐屯地内の兵士も3人に全く干渉しなかった。黄延秋は何の手続きも登録もせずに軍の施設内に入り、基地内の幹部の住宅に案内されたのである。

黄延秋が部屋に入ると、幹部の家族は驚愕した。

どうしてここに来ることができたのかと訊ねるので、この人たちが案内してくれましたと言って振り返ると、2人の男はすでに姿を消していたという。

その軍営地は上海の空域防御の任務を担当する重要な基地であった。その基地の中に民間人が侵入したことは、軍にとっての大問題であった。

本来ならスパイ容疑で検挙されても仕方がないほどの事件なのだ。しかしこのときは同郷の幹部の配慮により黄延秋は無事に故郷に送り返されたのである。

第3の事件

第2の事件が起きてからひと月も経たないうちに第3の事件が発生した。

9月20日、黄延秋は夜遅く帰宅した。帰宅の途中、誰かに監視されているような気配を感じていたという。

家に戻ると黄延秋は急に意識を失った。

目覚めたとき黄延秋はホテルの部屋のようなところに横たわっていた。

そこにはベッドが3床あった。ベッドの傍らには2人の若い男が立っていた。

彼らは黄延秋に向かって「今自分たちは蘭州にいる」と告げた。

1970年代の蘭州市街地

東北高村と蘭州は1000キロメートルも離れている。ひと晩で移動できる距離ではない。常識では考えられない話なのだ。

しかし彼らはさらに驚くべき告白をした。

南京の警察も上海の基地に案内した軍人も実は自分たちなのだと明かしたのだ。しかも2回の失踪事件は彼らが仕組んだものであることも告白した。

そして今回は黄延秋を中国をめぐる旅行につれて行くと言い出したのだ。

こんな不気味な男たちと旅行などしたくはない。黄延秋は一刻も早く逃げ出したかったが、彼らのような未知の能力をもつ男たちからは到底逃げられないと感じていた。恐怖に支配された黄延秋は、彼らの申し出を断ることができなかったという。

男たちは目が異様に大きいことを除けば通常人を同じ姿をしていた。しかし話し言葉は変わっていた。

黄延秋と話すときは黄延秋と同じなまりがあるのだが、ホテルの従業員と話すときは蘭州のなまりで話すのだ。そのくせ自分たちは山東省の出身だというのである。

次の日になると2人のうち1人が黄延秋を背負い、ホテルの窓から北京の方向に飛び立った。特別な装置も器具も使わずに体が空中を飛行したのだ。もう1人の男も空を飛んでいたという。

中国最大のUFO事件と言われるこの事件の未確認飛行物体とは、直接空を飛ぶ人型の生命体なのである。

あまりにも不思議な話であるが、黄延秋は実際に北京に到着し、その後も天津、ハルピン、瀋陽、福州、南京、西安を巡って蘭州に戻ってきたという。

そして謎の男たちは9月28日に黄延秋を故郷の東北高村に送り届けてくれたというのだ。

検証

黄延秋が空を飛んで中国各地を移動したという話はマスコミを通じて中国全土に伝わった。黄延秋は注目の的になり、公安警察までが調査に乗り出す騒ぎになった。

黄延秋があまりにも不可解な事件の当事者となったことで、婚約していた女性は世間の目に耐えられなくなり、婚約を破棄する事態にいたっている。

言うまでもなく黄延秋には疑いの目が向けられた。当然の成り行きとして多くの人たちが検証作業に乗り出したのだ。

ある人物は黄延秋の証言に含まれる空中旅行で立ち寄った都市の天候に着目した。各地の気象台の記録と黄延秋の証言を対比させて信憑性を確認したが、黄延秋の証言は各地の気象記録と完全に一致していた。

また別の人は中国各地で黄延秋が見たという現地の状況が真実と一致しているかどうかを調査した。

北京や天津で黄延秋が見たという光景や商店の名前などを調べて行くと、確かに現地には黄延秋が言う通りの情景が存在したのである。

調べれば調べるほど、黄延秋の証言の正しさが確認される結果になった。

社会の反応

黄延秋の話はあまりにも突飛すぎる。黄延秋の証言だけを聞けば虚言としか言いようがない。

しかし黄延秋の証言にはそれを裏付ける数々の証拠があるのだ。

短時間で上海に移動した2回の事件には、公務員や軍幹部の複数の人物の証言がある。

黄延秋が説明した通りの時刻に上海で複数の人物が黄延秋を目撃しているのだから、物理的に不可能なはずの長距離移動は実際に発生したと考えるしかないのだ。

また3回目の事件についても、高速で大都市間を移動した事実自体は疑いの余地がない。

そうなると黄延秋の証言を否定するには、空中飛行以外の手段で遠方の都市に移動する手段があったことを立証する必要がある。

事件から数十年経った今でも、当時の中国に北方から南方の都市まで半日もかからずに移動できる手段があったとする説は現れていない。

この事件はいまだに未解決のUFO事件なのである。